『詩学』演劇特集・ ,論考
   演劇の声に耳をひらく 〜舞台をめぐる「ことば」と「からだ 」 (抜粋)
   三上その子
      
つて鶴見俊輔がユニークに分類したところによると、

「純粋芸術」(プロに権威のあるものを複製させ、少数

の都市に住む文化人だけで消費するもの)と「大衆芸術」

(プロが娯楽用に提供し誰でも手が届くもの)のほか

に、第三の道として「限界芸術」があるという。それは、

生活と芸術が広く触れあう形としてのアートである。

「限界」という言葉が馴染まなければペリフェラル・アート

(境界芸術)と呼んでもよいかもしれない。社会と芸術の

縁を縫いあわせるものとして。鶴見は、農民芸術家で

あった宮沢賢治
を、その大きな実践者とした。

  『詩学』'06.4号掲載原稿より。
   三上が、詩や舞台など、アートにかかわるときに
   想っていることを、抜きだしてみました。
   (順不同です。引用・転載はご容赦を)。
の第三の芸術の中に、とくに「聴く力」の宿る「座の

芸術」と呼ばれるものがある。その代表は、日本の伝

統では「茶の湯」や「連歌」となる。他者性を取り入れ

ることで創造性をリフレッシュする「座の芸術」では

技術がときに殺してしまう偶有性や人の息づかいを、

大切な美の要素として取り入れるため、プロとアマチ

ュアの境がない。プロ以外も創り、プロ以外も享受し、

ときに作り手が受け手にもなる「聴く」芸術である。詩

人の朗読も、基本はこれに当たるだろう。
「純粋芸術」や「ハイアート」を好むのは、歴史を通じて

「目の力」を信じるリテラルな(ブキッシュな)インテリ層

であった。彼らにとって芸術は「非日常の美」であることが

多い。対してペリフェラル・アートは「日常」の子育てすら

「臨床の美」として芸術とする感性を持っている。つまる

ところ、モダリティ(目か耳か)の問題なのだ。

「聴くこと」が「見ること」(書いたり読んだりすること)と

 異なるのは、話の流れを「他者と共に」創りだす点で

 ある。 雰囲気、まばたき、うなずきなどのメタコミュニケ

 ーションによって、相手が次に言うことを常に先取りし、

 ロゴスによらないキャッチボールで、場が生まれ、

 育まれてゆく。  こうした、会話における微妙な「間」、

 時間の有機的なふくらみ〜 現象学者が「時間の庭」

 呼ぶところのもの〜 の中で、私たちは初めて、とりかえ

 のきかない「他者」をありありと感じることができるという。
村雄二郎は、このような知のありかたを、デカルト以来

の自然科学的な客観的思考モデルに対する「共感的思

考モデル」
として、新たな知のパラダイムに掲げている。

ロゴスに対する「パトスの知」=「臨床の知」として。

それは「演劇の知」とも呼ばれ、「目」から「耳」への

モダリティの変化は、そのまま演劇における「他者」と

「からだ」の不在を乗り越える大きなヒントとなる。
ず「からだ」を「聴いて」みる。すると、ひとりでに刻まれて

いる鼓動の音がする。しだいに「からだこそ最初の他者で

ある」
と気づきはしないか。例えば「表現が苦手」というの

は、まず自分の「からだ」とつきあえていない場合が多い。

個人レッスンで、いっしょに動きながら、相手の骨盤や腰椎

が楽になるよう整えてゆくと、パフォーマンスは深くなる。
人として舞台を語るとき、心がけたいと思うのは、

そうした「ひと」が「生きるための芸術」の小さな産声を、

大切にすることである。

せっかく芽生えた「演劇の知」をせっかちに視姦する

「制度のまなざし」に敏感でありたいと思う。

劇界にも、自明なあまり見えにくい女性嫌悪

(ミソジニー)の伝統があり「共生・共感」を匂わせる

ものを排除する傾向がある。自覚されていないために、

美学上の優劣(高尚か低俗か)として処理されている

が、こうした制度を放置した責任も、今後、問われてくる

ことになるだろう。詩にもあてはまるかもしれない。

界芸術家、宮沢賢治の魂をいくばくか分かち持つ詩人

は、演劇をはじめとするこうした新しい芸術の動きに、

より敏感であってもよいだろう。現代詩が孤独なたたかい

を苦しまないように。大衆詩が正義の味方となって、

あらたな対立を生まないように。電脳詩が「動物化」しなくて

すむように。私にとっては、ワークショップやちょっとした演出

やコーチ、人前でパフォーマンスをするときが、その想いを

「からだ」に染みこませる時間であ
る。