実存を乗せた舟を漕ぐ

   ポエトリー・リーディングのこれまで、今、これから
  
  
三上その子       

                         「詩学」2001・11月号掲載
                     
                      


 っという間に新世紀の最初の1年が過ぎようとしている。幕開けが、タリバンによるNYのテロ事件であったことは、永く人々の記憶に残りそうである。この状況を前にして、多くの人々の胸に、今世紀を平和なものにしたい、という願いが広がっているのではないだろうか。フラーの命名した「宇宙船地球号」の乗組員としては、何ができるかと考えてしまう。今や人類の未来は一連託生である。ブッシュもビンラディンも詰まるところはひとりの個人で、今、彼らと私(たち)の来来は、離れがたく結びついている。そしてこれは多分に、インタラクティブなものであると、私は信じている。目に見える部分も、見えない部分も。私は私の成し得るベスト(もちろん政治的な側面も含めて)を目指す他はない。
 のっけから世界に話が飛んでしまったが、本題は、ポエトリー・リーディングである。これだって、世界や時代と無関係というわけではない。蝶が羽を動かすだけで天気が変わると言うバタフライ理論も登場して久しいことだし、新世紀にふさわしく、この一年でさらに変化を遂げつつあるリーディング・シーンの状況を、たんなる現代詩の中での動き、というものを越えて、眺めることができたなら幸いである。
 詩の朗読自体は、ずっと前から行なわれていた。しかし、時代や社会といった要素を視野に入れて見ると、やはり何かしら「シーン」として語り得るものがあると思われる。このブームはそうした性質を帯びていると感じる。勿論、そんな事とは関係なく個として作業を続けてゆくことが、一番大切なことなのだが。
 と、偉そうに言ったものの、私自身、まだ新参者で、リーディングの過去については多くを知らない。現在について速断し、将来をいきなり予言できるほど、鋭敏でもない。その点、今回取材させて頂いた5人の読み手の方々に、じつに多くの情報とインスピレーションを頂いた。初めにご紹介しておきたい。
 東京ポエケットを主宰し、自由なリーディング活動を続けるヤリタミサコ。詩誌等で注目の新人として健筆をふるいつつ、時に朗読も行なう小笠原鳥類。日本最大の朗読イベント「ウエノポエトリカンジャム」実行委員長のさいとういんこ。ゲイ雑誌「G-Men」編集の傍ら、ゲイ&HIVアクティヴィストとして、詩のパフォーマンスを行なう、ピンク・ベアこと長谷川博史。先日、代々木アースガーデンにてオープンマイクを主宰した、音楽家で作家の谷崎テトラ。仕事の名前なので(詩人が職業かはさておき)敬称は略させて頂く。彼女たちのおかげで、私自身も自分にとってのリーディングとは何かを、発見しつつあるようだ。深く感謝したい。
 注目に値する詩人は、他にもいる。しかし、5人それぞれが、ヴァラエティに富むユニークな読み手であることはまちがいない。年齢差も大きい。シーンのありようの、なるべく大きな枠について、ご紹介するのに、ぴったりではないかと思う。                      
                  
 て、肝心のリーディング・シーン、である。実のところ、他の様々な表現分野と比べれば、全く大したものではない。数も、質も。が、だからこそ、新しいことや面白いことも起こりやすい。つまり、ここには権威というものがない。「ウエノポエトリカンジャムは今年で終わらせるつもり」と語るさいとういんこは理由のひとつを「権威になるのが嫌だったので」としている。
 基本的に、あくまでも自由でオープンな場所である。この性質から、かつての「詩の朗読」というイメージではくくりきれない多様なリーディングスタイルが、生まれてきている。異なるジャンルからの刺激も入りやすい。詩という海の、河口あたりである。海には生えない植物が群生し、カニが戯れ、マングローブの実を小鳥がついばみにやってくる。この豊かな風通しの良さが、今後も奪われないことを、願うばかりである。
 いっぽう、活字の詩の世界は、かねてよりやや風通しが悪いとの声があった。普通の愛読者として見てみると、もちろん良い詩作品は、つねに存在していた。しかし、その時々で、限られた作品群のみを、詩のドミナント・カルチャーと位置づける傾向は否めなかったように思う。良質な大衆詩(ピープルズ・ポエム)を熱心に育てることを怠るなど、多様性への情熱は、正直、不足気味であったかもしれない。結果、どうしても、詩というジャンル全体の足腰が弱ってしまった。
 音楽の真髄を知る者だけが、楽しめる音楽があるのは、大事なことだ。が、本来音楽は「みんなのもの」である。漫画家の萩尾望都は、その作品で弦楽器奏者に糸をつまびかせてこう言わせる。「快いでしょう。耳にもひふにも快いでしょう。こんな簡単なことから、音楽は始まるの」。詩に関しては、多くの人間が、リーディングを通じてこうした快感を思い出しているように思う。声の詩、の持つ、より多くの人間を誘いこむ力を。
 今のあらゆる文化が、そうなりつつあるように、ドミナント、ペアレント、サブ、といったような概念は、詩の世界でも緩やかに消えてゆくのかもしれない。音楽ファンの多くが、クラシックとジャズとポップスを並列に扱うように。時間をかけて、偏っていたバランスが整ってゆく可能性はある。無理に、とは思わないのだが。
                              
 在、リーディング人口の裾野は広がりつつあるようだ。東京のブームは、地方の詩人たちにも、少なからず影響を与えた。ここ三年程の話である。一年ほど前からは POETRY CALENDAR TOKYOという情報詩も発行され、誰もが、比較的簡単にリーディングをしたり聞いたりする場所を、見つけられるようになった。有名な「詩のボクシング」も、次第に全国に根づきつつあるようだ。私自身、地元の鎌倉で、気軽にラジオやイベントをやるようになった。

 いっぽう、自分にしかできないリーディングを目指す読み手たちは、多様な模索を始めている。CDを出す。ライブをする。路上活動をする。イベントを行う。コラボレーションをする。あくまでマイペースで楽しむ、という者もいる。取材でもじつに様々だった。

 世代を越えて時にコンビを組み、のびやかで、即興性の高いリーディングをくり広げているヤリタミサコと小笠原鳥類は、朗読を、「本気の遊び」(小笠原)「純粋な遊び。金儲けでも、名誉欲でもない。伝えたいことがあってやっているのでもない」(ヤリタ)と語る。

 ヤリタミサコは、20年ほど前に、アンダーグラウンド・カルチャーの盛り上がりを体験した。1950年代末からアメリカで始まったビートの詩人たちの流れをくむ朗読も、その中にあった。「あの頃は、朗読と音楽と演劇と舞踏の区別があまりなかった。今のブームと共通しているのは、誰もが気軽にやれるとっつきやすさ。あと、やや不良っぽい、サブカルチャーめいたところ」。長谷川博史もこう証言している「あの時代はほんとにゲイカルチャーがひとつの起爆剤になった」と。
 二人はともに、白石かずこの作品と朗読に大きな影響を受けたと言う。ヤリタはアングラを「エネルギーの爆発」と形容した。「その後バブルがやって来て、若者がお金を使う遊びに走り、朗読も下火になった。80年代に女性詩が力を持ち、ねじめ正一がトリックスターのように詩壇を掻きまわし、「詩のボクシング」へと続いた。街から出てきた、今のブームの主流の読み手たちは、ビートの影響ともほぼ断絶しているようだ。だが、ビートの孫世代にあたり、ビート詩人を尊敬しているアメリカのヒップホップ・カルチャーの影響を受けた、ラップスタイルの読み手たちもいる」と語る。さいとういんこも「個人的にはビートは好き。その流れのヒッピーカルチャーにも強く影響された。精神性を新しい形で引継ぎたいと思っている。でも、周りはビートを知ってたり、知らなかったり」と言う。
                        
 ともと、現在のリーディング・ブームに火をつけたのは、「オープンマイク」の存在だった。1997年から目立って本格化したこのイベントのスタイルは、誰がマイクを使っても可、というものである。主に東京のカフェやクラブで開かれている。高田馬場の「Ben's Cafe」や青山の「Ojas Lounge」から盛んになった。ここでは、確かにラップスタイルのリーディングも見かける。アングラやビートをまるで知らない世代も多い。
 別の集まりで朗読を行なう小笠原鳥類は、「詩を書き始めたのは90年代の半ば以降。ビートやヒップホップとも、とくに関係はない。自分の朗読は、音楽で言えば、現代音楽のような感じ。言葉の全てを聞き取れなくても構わない。ブーレーズと似ていると言われて、自分なりに意識してみることも」と語る。若い世代にも、多様なリーディングが存在していることが、よくわかる。
 ヤリタは「意味だけ伝えるなら、詩集を読めばいい。詩を楽譜のように扱って自由に声を出してみたい」と考える。谷崎テトラは「自分はむしろ音楽から入った。ライヴ活動で、今で言うフリースタイル、言葉をその場で形にしていく、というのをやったり。今のVOID OV VOID というユニットでは、RAIというパートナーと一緒に、トランスやアンビエント音楽と、詩を組み合わせた、新しいライブのスタイルを模索している」と話す。
 いっぽう長谷川博史は今年の「ウエノポエトリカンジャム」で、ドラァグクィーンのメイクと衣装をつけて登場。「熊婦人の告白」というゲイとHIV感染の体験に基づく詩を読み、その演劇的な娯楽性で会場を涌かせた。「私の身体に流れるあなたと同じ赤い血は/生きる歓びを/心の底から沸きあげる/幸福の血でございますの」というメッセージの力強さは、多くの観客を感動させた。彼の前に登場したもう一人のドラァグクィーン、メロディアスは、素読みのリーディングの後、見事なリップシンクを披露した。存在そのものが、詩であるかのようなパフォーマンスであった。また、去年に続いて登場の「表現系ゲイ」として知られるますだいっこうは、ふだんから芝居やダンスもこなす多才なパフォーマーでもある。私自身もジャンべ奏者と共に、ダンスの要素のある朗読をした。
 このように、音楽、演劇、ダンス、映像などとのコラボレーションも、リーディングの現場では増えてきている。オープンマイクにギターを持って現れる詩人の姿は、既に珍しいものではない。ジャンルが融合して新たな総合的アートに成長することも、喜ばしい現象であると思う。お互いの欠点を隠すだけに終わらない努力は必要だが、声の詩の可能性は、かなり広い。
 
                 

 
つは今回、長谷川とメロディアスの両氏が、共に日本の誇るアート集団「ダムタイプ」の亡き古橋悌二の古い友人であることを知り、大変驚いた。確か私自身とダムタイプの出会いは、10年以上前ではないかと推測する。ピンクの豚の玩具がステージを埋めつくした印象が忘れられない。「彼は21世紀のアンディ・ウォーホールになれた人。最後の「S/N」の舞台では、美術にとらわれず、ダンスやテキストや、ドラァグクィーンショウを交えて、性やHIVというテーマをポジティヴな舞台に構築してみせた。あの方向性を、メロディアスなんかが、一番正統に受け継いでる気がする。彼の存在は大きかった。亡くなったのはほんとに惜しかった」と長谷川は語る。彼自身は、3年程前から、ピンク・ベア・カフェというイベントを主宰。HIV患者の会の活動資金を得ている。詩のパフォーマンスも交え、SAFER SEXの知識を広めている。
 読み手たちにはずいぶん幅が出てきた。と同時に、現在、オープンマイクの現場は、人数、質共に不安定になっている。古い人間と新しい人間が入れ替わる現象も見られる。さいとういんこは、質的には、マスコミがとりあげる前の99年がピークだったと話す。「エネルギッシュで夢のようだった。駄目だった人も触発されてぱーんと伸びたり。やっぱり最初から来てる人は、感性が鋭いから詩もいいし。後から来る人はちょっと劣る。認知度が上がったと言えば上がったのかも。舞台表現というのはセクシー勝負。ほんとは切磋琢磨も必要。自分に厳しくなれよって」。
 その点「詩のボクシング」や、お金で投票するSLAM形式のリーディングは、有効かもしれない。はっきりと勝敗や順位の決まるイベントで、娯楽性も高い。聞き手もつい熱心になる。詩というものに優劣をつけることに、抵抗のある意見も内部にあった。が、こうした「大人の遊び」的イベントの存在は、文化の懐の深さと成熟度を示すものであり、良い傾向ではないかと思う。今回取材した全員が「いいのではないか」と肯定していた。
                       
 りあえずは、端境期とでも言うのだろうか。イベントを含め、リーディング・シーン全体としての個々の集まりの当たり外れは、大きくなっているようである。今月楽しくても、来月はわからない。その逆もある。少し覗いただけで、リーディングの何たるかを語るのは現状ではかなり難しいだろう。
 私なりには、リーディングという現象に、良いも悪いもないと思っている。その場はただそこにあり、やって来た者に向けて開かれている。ただ、たんなる娯楽と思って、金を払ったのだから楽しませてくれればいい、という態度でいると、どこへ行っても何も得られないかもしれない。いろんな意味でインタラクティヴである。
 リーディングに集まるということは、その時のその場の人間たちや、店の雰囲気や、季節までも含めたような、ひとつのコミュニティを体で受けとめることだ。全員で同じ祭りに参加しているようなものである。祭りだが、完全なハレでもなく、ケでもない。日常と隣接したゆるやかな「あわい」の場所である。社会の中間層としての人々の気分や世論が、生れてくるような、場所でもある。
 そういう日常と、非日常のあわいに身を置いて、詩とは、話すとは、表現とは、アートとは、自分とは、他人とは・・・? という自然発生的な問で自分を揺らしてみること、体内の深い感覚を探ってみることに、興味のない人間には、さぞ退屈なことだろう。朗読が好きではない、つまらない、という詩人は、そのような身体感覚を、本質的にあまり必要としないタイプの人かもしれない。それは全く構わないと思う。
 ただ、迷っている方には、気楽な参加をお勧めしたい。迷っている自分、或いは、あがっている自分、のままでマイクの前に立ってみる。人の言葉を聞いてみる。そんな経験は、それだけでも表現行為について、多くを教えてくれる。「朗読は考えていなかったが、やってみたらいろんな発見もあった」と小笠原鳥類は語っている。私もそうだった。
 前述のダムタイプは、その作品形式を「ワーク・イン・プログレス」と名づけている。進行中の作品、という意味だ。時間をかけて作品が出来あがってゆく過程をも、作品とする表現方法である。ポエトリー・リーディング・シーンも、ひとつの大きな「ワーク・イン・プログレス」である。ここ数年、こうした現象が生まれてきた。その事実を大切にして、末永く見守ってゆくのが良いだろう。この赤ん坊がどんな人間に育つのかは、成人の日までわからない。時間が必要である。まさに20年位がひと目盛り、ではないだろうか。

 早急に飛躍的な認知や、「稼げる」消費商品化を目指してしまうのは、どこか違うような気がする。「1人スターが出てくれれば」という話もあった。が、出なかった。というか、出ていない。独自の声、を重要な要素とする今回のブームの性質を考えると、スターという幻想は、シーン自体必要としていないのかも知れない。縁あって関わった私も、揺り籠を揺らす母親のような気持ちで、ときに子離れをしつつも、マイペースで朗読と接して行こうと考えている。
                        
 後、シーンはどうなってゆくのか、予測や希望を聞いてみた。「才能のあるプロに近い人たちと、それに憧れたりして草の根的にやる人たちと、2分化して安定するので構わないと思う」(さいとう)「日本の文化や芸術が成熟しないのは、アート・アカデミーコンプレックスが強いから。もっと様式を壊す方向がいい」(長谷川)「決めつけはないが、例えば、シーンが表現の飽和状態になってエントロピーが増大するなら、意識的なドライヴも必要かもしれない」(谷崎)「デキシーランドジャズのようにみんなが楽しむお茶の間的朗読と、マイルス・デイヴィスのように訳わからないけど凄い、というのと、2分化するのでは」(ヤリタ)「希望はとくにない。ひとりひとりの勝負。詩でなければ出来ないことを追求したい」(小笠原)などの、ヴァラエティに富む意見が集まった。
 ヤリタは、今のリーディングの特徴として「メッセージ性が強い」ことを挙げている。自分では、言葉の意味に縛られない朗読を目指すが、「その人の真実のありようが出ていれば良い」とも話す。
 たしかに、詩はメッセージを伝えるのにも、有効な道具である。「才能のある人がやれば、何でも普遍化する」と、さいとうは言う。長谷川は「自分のは表現というより伝達。結果、詩であるかどうかは他人が判断すればいい。恋愛してない僕が恋愛の詩を書いても、熊婦人のようなインパクトは持てない。詩ってすごく実存的な表現。実存を乗せる舟。20世紀後半の詩論にもあるように、詩は観念ではなく、媒体だから。読み手の実存が舟に乗って相手の港に届いた時だけ、ポエジーを誘発させる力を持つ。実存からかけはなれたところで、いくら様式に自分を押しこめてみたところで、スカだろうって気がするのね。構造主義をいくら学んだところで、詩は書けない」と語る。
 「本質的なことをつきつめる詩の書き方はしない。詩の面白さは細かい面白さ。自分の場合、動物という奇想天外なものにすごく興味がある」と話す小笠原は、そうした彼独特の実存をこめた動物の詩を多く書いている。「彼自身が鳥の嘴が何センチってことに、凄くリアリティを感じてるから、人に伝わるのだと思う」とヤリタは言う。
                       
          
 分の「真実のありよう」を表現しよう。そんな詩人たちが、確かに今のシーンを作ってきたと感じる。さまざまな実存を互いに尊重しあう空気が、朗読の現場の風通しの良さを作りあげている。長谷川は、古橋悌二が最後に「S/N」で示したような、対極にあるものを壊してゆく、ポリガミックな視点を、大事にしたいと語る。「どれだけ人間の多様性や多重性を、自分の中で、また人との関わりの中で、再構築できるかが、これからの課題」と。男であることに疑問を感じない日本の男性が、危うい位置にいることを、彼のパフォーマンスは明らかにする。「モノガミーじゃないってこと。性に関しても。人が他者と平和に暮らそうとしたらそれしかない」。
 振りかえってみると、ビートの時代を築いたのは、主にゲイの詩人たちであった。彼らは、男性の中にある女性性が解放された時、かくも美しい価値観のシフトが起こることを教えてくれた。その思想は、資本主義社会を洗い直す源流となった。
 面白いことに、今回のブームでは、行動力のある女性のサポートが目立つ。東京のリーディング・シーンの老舗である「Ben's Cafe」や「Ojas Lounge」の司会も、「ウエノポエトリカンジャム」や「東京ポエケット」の主宰も、みな女性であり、権威を廃した自由な空気を保っている。「詩のボクシング」や「POETRY CALENDAR TOKYO」等成功している企画にも、地道に続ける、という女性的で地に足のついた奉仕の精神が、生きているように思える。
 個人的なことではあるが、日本という国は、母でも妻でも娘でもない大人の女性を、とりわけ文化レベルでは、全くと言っていいほど必要としていないとの印象を、短い海外生活の体験から、痛感していた。今の朗読シーンに「気がついたら」という感覚で、自然な女性性が広がっていることは、嬉しい現象と受けとめている。今後は「育てる」という力も発揮したいものである。
                        
 崎テトラが、十一月から始めると言うオープンマイクも、ポリガミックな性質のものと言えそうだ。3年程前から原宿の代官山で毎月開いているオーガニック・コミュニティ・カフェ「BE GOOD CAFE」(http://begoodcafe.com/)の中で主宰する予定である。このカフェは、オルタナティヴな社会のあり方について、多彩な人々が情報やアイディアを交換する場所となっている。マイクでは詩以外の主張などもOKだ。ここに至る経緯を、くわしく聞いてみた。
「自分の中で2つの大きな流れがあった。ひとつは96年から97年にかけての、レイブ・カルチャー。山や森や海に行き、トランスの音楽で夜通し踊る。海や山から朝日が登るピークの瞬間に、参加者のハートが広がり誰もが詩人になる。普通の女の子がみんなに思いを語りかけたりする。文学的素養からではなく、自然や命、出会い、愛そのもの、宇宙の摂理みたいなものも含めて、直覚的に感じる体験をすると、誰もが表現者になれる。2つ目は、97年のテクノとかレイブの大きな流れがあった時に、地球環境保護、平和運動、先住民のムーブメント等と出会ったこと。教養と情報のある人ほど、絶望している状況を感じた。NYのテロ等に対しても、自分の魂の声が語り始めていると思う。何かしなくちゃと。表現の技術ではなく、モチベーション。それで、オープンマイクを思い立った。技術を競い合う場ではなく、ほんとの意味でオープンマイクがやれたらと」。谷崎は「言葉で世界をデザインすることは可能だ」と考える。詩のための詩をどう思うかと尋ねると、「自分も小説を書くし、言葉のプロへのリスペクトはある。自分はつたない言葉を表現して初めて、素晴らしい先輩の詩人の芸術に、ふれることが出来た」と、風通しのよい答えが返ってきた。
 今回取材させて頂いた詩人たちからは、多くの考えや場と、交流を保ち続ける自由さを感じた。大きな特徴である。「自閉しても始らないしね」と長谷川は言う。「今あるものを一度ばらばらにして、再構築しちゃった方がいいかもね。日本は画一幻想が強くて」と。
 谷崎は、かつて、かの有名な反体制派の学者ティモシー・リアリーの朗読CDの音楽を担当した。ビートやロックカルチャーと、その向こうの全てのムーブメントを、繋ぐ役割を果たした博士の言葉、「お前自身の権威を疑え」が、自分に強く残っていると言う。
 自らインディーズ・レーベルを興し、朗読CDを積極的に作り続けてきたさいとうは、「私は自分が作るものでお金を儲けたい。詩じゃなくてもいいけど。そういう私を見て、誰かがこういう風にやれるんだと思って、その方向に来てくれればいい。ウエノを主宰した本当の理由も、前例がなくても本気でやりたければ出来ることを示したかっただけ」と言う。ポエトリー・アイコン化しつつあった自身の存在すら「興味が次へ移ってきている。もうポエトリー界のさいとういんこからは、降りたいの」とあっさりと語る。
                        
 ねにオープンな状態でいること。シンプルに自分の真実を表現すること。何より、何が自分の真実かを検証すること。それは、詩やリーディングだけの話に留まらない。よく見ると、社会全体が、真実を選びとり始めているのが見えてくる。誰もが自分という「実存を乗せた舟」を漕ぎ始めたようだ。
 アメリカ社会の歪みが暴かれる、苦しい時代に、ひとつの予兆として、ビートは起きた。日本も今、明らかな変革の時にある。この時代背景を意識しておくことは、リーディング・シーンを語る上で、非常に大切なことだと思う。すると、このブームを「心の癒し」や「自己満足」ととるのは、何か状況を読み違えていることが見えてくる。また、リーディングを「場」や「人」ではなく、「作品」を主役に据えて、取り沙汰してしまうのも。
 かつて、サンフランシスコ・ルネッサンスという言葉が使われた。今回の朗読ブームも、ある意味で、人間性の復興につながる、大きなパラダイムシフトの、ほんの一側面ではないかと、私は思う。と、言うと大げさだが、要するに、心と体、観念と感覚、男と女、自分と他人、など、全てのバランスを再びとる時代なのかもしれない、ということだ。
 たとえばマイクの前で、自分を守らず、攻撃的にもならず、刷りこみでない自分の真実を語る、というバランスを獲得するのは、骨の折れることである。しかし、じつはそれこそが人間性の基本が花開いた状態である、とも言える。心身ともにフラットで、愛や平和といった大きなものを、他者と分かち合う準備が整っている状態だ。その時、個人は、真の芸術のエネルギーの導管となる。誰のものでもなく、誰のものでもある芸術の。そうした「ON」になった人間の持つ、ある種の美しさのようなものを、カフェやクラブの朗読では、しばしば、わかちあう機会が訪れる。
                            
 り年配の世代に、リーディングの現場で起きていることの意味が伝わりにくいのは、大変残念である。やはり読み手たちの外へ向かう努力が足りないのかもしれない。が、仕方のない面もあるだろう。右肩上がりやバブルを、社会の基調として体験したことのある世代と、始めから不況をサバイバルしている世代とでは、どうしても感覚が異なってしまう。シーンの主流をしめる若い世代は、徹底した個を拠りどころとして「自分は誰か」ということをつよく自覚せざるを得ない世の中を、暮らしてきた。
 異文化体験の容易さからくる、情報量の差もある。海外に個人旅行し、いろんな国の友人がいることは、今や若者にとって珍しくない。世界で何が起きているのか、個人レベルでの生の情報を多く持ち、交換しあっている。世界の動きと自分の動きが、日常レベルでシンクロしている。
も今回、前々から感じていたレイヴとポエトリー・リーディング・ブームの関連性を、谷崎の話から真剣に考えてみる視点を得た。
 初めてレイヴを体験したのは、89年頃のロンドンである。レイブが英国で発祥した時期だ。とりあえずはハコ(室内)系のクラブ・イベントだった。トランスの音楽で朝まで踊る。すると、ハイになり、意識が解放されてくる。幸福感や、愛情が沸き起こってくる。疲れているのに何時間でも踊れる。人種も宗教もゲイもレズアンもごちゃまぜで、オープンさと連帯感が両立していた。全ての人が友人であるかのような感覚である。
 90年代、レイブは英国から世界中に広がり、一大ダンス・カルチャーを形成した。その中でシェアされたアイディアには、美しいものが沢山あった。自発的な助け合いやDIY、トライブとも呼ばれる人種や宗教を越えたコミュニティのありよう、自然への感謝、ラヴ&ピース・・・ヒッピー・カルチャーの最も良質な部分でもある。
 日本で盛り上がりを見せたのは、97年頃である。リーディング・ブームが起きたのも、97年位。さらに「インターネットの一般化も同時期」とヤリタは指摘する。谷崎もこう語っている。「新しい時代の気分や新しいものが生れる時は、まず新しい音楽が出てくる。それが、今ようやく言葉が追いつき始めたのかも。インターネットでは今、膨大な言葉がやりとりされている。僕の中では、オープンマイクと無関係じゃない。メー―リングリストも1つのコミュニティだから。つまり、そこで必ずコミュニティが形成される、っていうこと」。
                         
 イヴ・カルチャーとリーディング・ブームとインターネット、この3者に強い関連性を見出しているのは、現在、私だけではないだろう。戦争、自然破壊、世界経済の減速。その裏で、もう一つ、人々の暮らしの中に、自由かつオープンな、別のフェーズができ始めている。水面下でしたたかに受けつがれてきた、人間の進化の力のようなものが、しだいに日常レベルへと浸透して来ているかに思えてならない。ルネッサンス、と大げさな言葉を、あえて引用してみた由縁である。
 オープンであること。個の自由があること。双方向性があること。コミュニティを形成すること。対立や闘争と珍しくリンクしないサブカルチャーから発したこと。ハレでもケでもない「あわい」の場であること。人間性の開花を助け合う者たちをつなぐ、緩やかな器となり得ること。
 新しい未来に役立つこうした共通点が、今後のリーディング・シーンにも続いてゆくことを、つよく希望したい。短所を言い募るより、長所を伸ばす方が、前向きだろう。たんに、自分はそうする、というだけの話ではあるが。少なくとも、リーディング・シーンの足を引っ張らずに、見守るくらいのことは、出来るかと思う。ほんの少し、普及に手を貸すことが出来たなら、なお幸いである。思いのほかに広いらしい詩の海で「実存を乗せた舟」を、今後も漕ぎ続けてゆきたいと思っている。